取調拒否権の思想(前田朗)」カテゴリーアーカイブ

取調拒否権の思想(1)

取調拒否の実践

 本年三月三一日に開催された救援連絡センター総会において、代用監獄(留置場)に逮捕・勾留された被疑者による取調拒否の実践が報告された。逮捕されたAは、警視庁三田署において、取調拒否、点呼拒否、ハンストを宣言した(ハンストは体力等を勘案して勾留決定まで)。Aの取調拒否(出房拒否)の実践は非常に示唆的であり、理論的にも検討を深める必要があるので、以下、やや詳しく紹介したい。

 二〇一一年二月二〇日、沖縄高江での米軍ヘリパッド建設に反対する反戦デモで、アメリカ大使館前を通るコースを申請したが、都公安委員会にコース変更処分されたので、当日、デモをボイコットして歩いて大使館まで行く戦術に切り替えた。集合場所・新橋駅前では、警察が情宣に対して、公安条例違反の無届集会だと恫喝を加えていた。大使館前までの移動中も、警察は「公安条例違反の無届デモだ」と、参加者を萎縮させようとしていた。

 Aは、麻生邸リアリティーツアー不当逮捕事件国賠訴訟の事務局をしているので、このような公安条例弾圧に非常に腹が立ち、悪宣伝を繰り返す警察車両の梯子に登って口頭で抗議をした。拘束されないようにすぐに降りた。警察は、大使館に抗議をさせないために手前でピケを張っていた。不当不法なピケを久しぶりに見ると腹が立ち、再度警察車両の梯子にのぼり指揮官に抗議をした。すぐに降りたが、群がった警察官はAを拘束し、突然の「検挙」の掛け声で逮捕された。

 Aは、梯子に登ること自体は何の違法行為にもならないと考えていたし、抗議自体も口頭によるもので、物理的な実力行使とは程遠いものであった。赤坂署に連行されるまでの間、私服刑事に「被疑事実は何か」と聞いても、具体的な被疑事実、罪名は答えなかった。後に被疑事実とされたのは警察官の胸を殴打したとのデッチ上げの公務執行妨害であった。

 赤坂署での弁解録取では、逮捕自体が被疑事実すら告げられない違憲な逮捕だとして即時の釈放を要求した。「手続に異議があるので、六法全書を持ってくるよう」要求したが、「便宜供与になる」と言うので、「ならば便宜供与になるといった発言のみを録取書に記載せよ」と言ったが、取調刑事は拒否した。

 署の前で仲間が抗議行動をしていたので、「接見させろ」のコールに呼応して、取調室でシュプレヒコールをあげたところ、数人がかりで体を押さえつけられ、ある刑事がひじでAの喉を圧迫した。数時間たって、弁護士接見が入ったので、押収品目録を宅下げするよう要求したが、「赤坂署は改装中の仮施設で留置設備がない、だから書式もないから無理だ」などと無責任なことを言うので、弁護士とともに抗議した。Aは喘息もちなので病院診察を要求し、慶応大学病院の診察を経て、三田署に移送された。

出房拒否戦術

 イラク反戦以降付き合いのある仲間は、市民運動家、いわゆるノンセクト、あるいはアナキストだったりするが、街頭闘争で多く逮捕されてきた。仲間が逮捕されれば救援するし、救援された仲間は次の弾圧の救援をするといった相互救援のなかで経験を共有してきた。「黙秘」の話が出た時に「そもそも取調自体を拒否すれば、あの長時間の苦痛はないのではないか」、「取調したって何も話さないんだから、黙秘権っていうならそもそも出ていかなくてもいいんじゃないか」という雑談をしたことがある。興味を持って調べた仲間から、包括的黙秘権と取調受忍義務という概念を教えてもらい、さらに調べてみたらどうもその点を争った判例もないようなので、「次に入ったらやってみるか」と笑いあっていた。そこで、Aは三田署に留置されるや、取調拒否を宣言したのである。

 Aは「供述は任意であり、そもそも黙秘を公言しているのだから、取調室に行く必要がない。強制的に引きずってでも連れて行くつもりなのか。もしそうするなら徹底的に争うぞ」と言った。すると、留置担当官は「強制的には連れて行けないけど、取調べの刑事さんに直接言ってもらえる?」と言うので、 「言うために出て行ったら、なし崩しに取調べになる。行かない」と返すと、それで終わった。他の日も呼びには来るが、「出ない」と言えばそれまでであった。

 警察側は何を聞きたがっているのか探りを入れようと思って一度出房したが、人定程度のことしか聞かれなかったので、早々に切り上げさせて房に戻った。救対に警察の動向を知らせるために出たわけだが、無意味だと思い直して、以降はやめて、出房拒否を貫いた。

 取調室に入れば、長時間にわたって身体的精神的苦痛を受けるから、そもそも出ないというのは非常に健康にいいという。

 検察庁での検事調べに対しては「黙して語らずとだけ書くように」と言い、すぐに終わった。その後、三田署に検事が調べに来たが、出房しないでいたら、留置担当官は警察の調べとは違う困った様子で、「頼むから直接検事に言ってくれ」と言われ、取調室ではなく弁護士接見に使う面会室でやるというので面白がって出てみた。もちろん被疑事実については何も述べず、逆に「写真や映像を見ても被疑事実が確認できない」という言質をとった。

 Aは、仲間に出房拒否を勧めている。実際に 九・一一弾圧と竪川弾圧では何人か出房拒否を実践した。警察の対応はまちまちで、「引きずり出すよ」と留置係に言われた者もいれば、捜査担当刑事が留置場に入ってきて「引きずりだしてやる」と言われた者もいる。前者は無理せず、結局は出房したようだが、後者は拒否を貫徹した。

 Aは「当然権力の反撃もあるので楽観できませんが、転向強要・自白強要の温床である密室から自由であることの意義は大きく、自白中心主義を解体するための強力な武器になると思います。新たな捜査手法として黙秘の不利益推定も目論まれていますから、これまで以上に黙秘の意義を強調すべきです」と語る。

 以上がAの取調べ拒否の実践である。これまで黙秘権行使の重要性が唱えられてきたが、黙秘権行使にはそれなりの覚悟が必要でもある。取調室で刑事に囲まれて、延々と嫌がらせ攻撃にさらされ、黙秘を貫くのは容易ではない。黙秘権を行使するということは、取調べの質問には答えないことである。答える必要がないのだから、そもそも取調室に行く必要もない。それならば、出房拒否をするのが穏当かつ効果的な黙秘権行使である。そこで、次回は取調拒否権の確立のために検討を加えたい。

救援連絡センター『救援』519号(2012年7月)
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/12/blog-post_1549.html

取調拒否権の思想(2)

黙秘権

 前回は、黙秘権を行使して取調を拒否し、そのために出房拒否を実践した例を紹介した。この実践は黙秘権行使に新しい局面を拓くものであり、しかも取調をめぐる法理論にも重要な問題提起となっている。取調拒否権が浮上するからである。取調に際して黙秘することから一歩踏み込んで、黙秘権行使のために取調そのものを拒否する思考である。そこで黙秘権とは何かの基本に立ち返って、より詳しく検討することにしよう。

 黙秘権(自己負罪拒否特権)は、例えば、次のように定義される。

 「自己帰罪拒否特権ともいう。何人も、自己に不利益な供述を強要されないこと(憲三八Ⅰ)、即ち、自分自身に罪(=刑事責任)を負わせる(ないし加重する)結果となる供述を拒否できる権利である。自己に不利益な供述には名誉や財産上の不利益は含まない。アメリカ合衆国憲法の自己負罪(セルフ・インクリミネーション)に由来する。被疑者・被告人については、利益・不利益を問わずいっさいの供述を包括的に拒否できる(刑訴二九一Ⅱ・三一一)ので、黙秘権とも呼ばれる(そもそも供述義務がない)。証人は、一般に出頭・宣誓・供述の義務があるが、『自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞のある証言』は拒否できる(刑訴一四六)。議院の審査・国政調査における証人が、当該内容の証言を拒否することも保障する。」(『コンサイス法律学用語辞典』三省堂)。

 さらに、黙秘権の告知について、次のように整理される。

 「刑事訴訟法一九八条二項は、捜査機関が被疑者の取調に際して、予め自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げなければならないと規定する。また、同二九一条二項は、裁判長に対し、起訴状の朗読が終わった後、被告人に対し、終始沈黙し、または個々の質問に対し陳述を拒むことができる旨を告げることを要求する。これらを黙秘権の告知という。」(同右)

 以上のことを整理すると、いくつかの論点が交錯することになる。

 第一に、憲法上の権利であるのか、それとも刑事訴訟法上の権利であるのか。ここで注意するべきことは、右のように憲法三八条一項「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」を引証するだけで十分なのかどうかである。憲法三六条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」としているので、重要条文であることは言うまでもない。だが、それだけではない。三六条、三八条の前提に、憲法一三条が「すべて国民は、個人として尊重される」とし、自由権と幸福追求権を定めていることを忘れてはならない。

 第二に、誰の権利であるのか。被疑者、被告人、証人その他が列挙されている。ここでも、憲法一三条などを前提として、原則論としては、すべての者の黙秘権が想定されなければならない。そのうえで、法律上のそれぞれの扱いが定められている。取調拒否権を論じる本稿では、以下、被疑者の黙秘権を中心に検討する。

 第三に、権利告知の要請と、その効果が問題となる。権利告知は、憲法の明文の要請ではないが、それに準ずるものと理解するべきである。

 さらに、第四に、黙秘権行使の帰結も重要である。権利である以上、黙秘権を行使したことを理由に不利益推定をしてはならないというのが通常の理解である。

取調受忍義務論

 実務では、被疑者について取調受忍義務論が採用されている。とりわけ身柄拘束された被疑者には取調受忍義務があるのが当然であるかのごとき実務が支配している。身柄拘束されていない被疑者についても、しばしば事実上の取調受忍義務が課されていると言って過言ではない。

 実務における被疑者の取調受忍義務論は、一方で捜査機関の被疑者取調権を前提とし、同時に、被疑者の出頭・滞留義務を根拠としている。

 刑事訴訟法一九八条一項は「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と定めているので、被疑者に対する取調の強制権限と、身柄拘束されていない被疑者には出頭拒否を認めている体裁なので、身柄拘束されている被疑者には出頭義務だけでなく滞留義務もあると解釈されている。

 取調受忍義務論には疑問が少なくない。ここでは福井厚(京都女子大学教授、元法政大学教授)の教科書『刑事訴訟法講義[第五版]』法律文化社、二〇一二年)から引用しよう。福井には他にも『刑事訴訟法[第七版]』(有斐閣)、『刑事訴訟法学入門[第三版]』(成文堂)、『刑事法学入門[第二版]』(法律文化社)がある。

 「実務は、一九八条一項但書の『逮捕又は勾留されている場合を除いては』という文言を根拠に、逮捕・勾留中の被疑者取調を強制処分と考えている。学説の中にも、逮捕・勾留中の被疑者には、捜査官の取調を受忍する義務があり、捜査官の出頭要請に対して被疑者は出頭を拒み、又は出頭後退去することはできないとするものがある。出頭義務・滞留義務を肯定しても、供述自体を強制することにはならないというのであろう。しかし、被疑者には、憲法上、黙秘権が認められている。この黙秘権は包括的なものであり、黙秘権を保障する見地に立てば、取調受忍義務を肯定することはできないであろう。また、逮捕・勾留は積極的な取調のために設けられている制度ではなく、逃亡及び罪証隠滅を防止すると言う消極的な機能を果たすための制度であり、従って逮捕・勾留が取調受忍義務を生ぜしめるという見解には、理論上、重大な疑問がある。取調目的の身柄拘束を認めることは、被疑者・被告人に訴追側と対等の地位を認める当事者主義に悖る思想であると言うべきであろう。そもそも、強制処分法定主義からすれば、逮捕・勾留中の被疑者に逮捕・勾留とは別個独立の処分である取調受忍義務を負わすのであれば、そのための(一九八条一項但書とは別の)明文の根拠規定が必要だと言うべきである。」

 ちなみに、取調受忍義務肯定論者としては、検察関係者のほか、団藤重光(東京大学名誉教授、元最高裁判事)があげられている。他方、否定論者としては、平野龍一(元東京大学総長)、石川才顕(日本大学名誉教授)、光藤景皎(大阪市立大学名誉教授)、松尾浩也(東京大学名誉教授)、田宮裕(立教大学名誉教授)、小田中聡樹(東北大学名誉教授)などがあげられている。

 取調受忍義務をめぐる議論は、黙秘権論だけではなく、未決拘禁(逮捕・勾留)論、訴訟構造論にも及ぶ理論問題として展開されてきた。そうした射程も考慮に入れつつ、取調拒否権の立場から光を再照射する必要がある。

救援連絡センター『救援』520号(2012年8月)
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/12/blog-post_15.html

取調拒否権の思想(3)

取調受忍義務論

 被疑者を逮捕・勾留し、取調室に出頭・滞留して取調べを受けることを強制するのが実務である。黙秘権の保障など顧みようとしない。しかも、被疑者の身柄拘束場所は、本来は拘置所であるにもかかわらず、警察署内の留置場を代用監獄として利用してきた。捜査機関が、被疑者の身柄を自由自在にコントロールし、取調べを強制し、自白を強要する拷問システムである。国際自由権規約に基づく自由権委員会や拷問禁止委員会から厳しく批判されてきたが、捜査当局は改めようとしない。代用監獄、取調受忍義務論、自白強要は三位一体の実務であるが、これらを切り離して正当化してきた。 取調受忍義務論は、次のような「論理」をもとにしている。

 第一に法律上の根拠である。刑事訴訟法一九八条一項は「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と定めている。被疑者に対する取調の強制権限と、身柄拘束されていない被疑者に出頭拒否を認めているので、身柄拘束されている被疑者には出頭義務だけでなく滞留義務もあるという。一九八条一項但書の反対解釈である。

 第二に逮捕の法的性質である。受忍義務論は、逮捕の目的に被疑者取調を含めたり、起訴前勾留は被疑者取調を含めた捜査のためのものであるという。未決拘禁全体の目的に被疑者取調を含める見解もある。

 第三に黙秘権との関係は、出頭・滞留義務を認めて、取調べを受けることを強制しても、供述そのものを強制しているわけではないと説明される。取調室で沈黙しているのは自由であるとしつつ、強制処分としての取調だから捜査官が被疑者に供述を促し、説得するのは当然であるという趣旨である。つまり、憲法で禁止された自白強要はしていないとされる。

 第四に実際上の必要性である。犯罪捜査にとって被疑者取調は必須であり、治安確保のために被疑者取調は欠かせないという。一九八〇年代には「日本警察優秀論」が喧伝されたが、その際にも、犯罪検挙率の高さとともに、犯罪者に説得をして自白させ反省させることが再犯防止につながり、警察の優秀さに含まれているとされた。

 なお、最高裁判例は被疑者の取調受忍義務について特に言及していない。下級審判例の中には、被疑者の取調受忍義務を前提としていると理解されるものがある。例えば、都立富士高校放火事件に関する一九七四年一二月九日東京地裁判決である。

 取調受忍義務論は以上のようなものであるが、警察・検察関係者はもとより、裁判所もこれを是認ないし放置している。というよりも、逮捕・勾留実務を見るならば、被疑者取調受忍義務が当然の前提であるかのような様相を呈している。

受忍義務論批判

 しかし、被疑者取調受忍義務を課している実務は違法であり、憲法違反であり、重大な人権侵害であって、改められる必要がある。

 前回は刑事訴訟法教科書(福井厚)を紹介したが、今回は刑事訴訟法学者によるコンメンタール(註釈書)を紹介しよう。多田辰也(大東文化大学教授)は次のように述べている(後藤昭・白取祐司編『新・コンメンタール刑事訴訟法』日本評論社、二〇一〇年)。

 多田は問題点を次のように整理する。「身柄拘束中の被疑者には、取調室へ出頭しそこに留まる義務、つまりは取調べ受忍義務があるかが、最大の論点とされている。この争いの根源は、旧法までは予審に属していた強制的取調べ権が、現行法では捜査機関に委譲されたと考えるか否かという点にあり、その意味で捜査構造論の中核をなす」。

 そのうえで、受忍義務肯定説に対して、「しかし、但書の反対解釈から導かれるに過ぎない受忍義務は、強制処分法定主義に反する。しかも、受忍義務を肯定することは、包括的な黙秘権を保障した現行法の理念にも反するといわなければならない」と批判する。

 受忍義務否定の根拠は「黙秘権の実質的保障、取調べ目的の逮捕・勾留は認められていないこと、被疑者の当事者としての地位」があげられる。

 それでは、一九八条一項但書をどのように解釈するのか。この点はいくつかの学説に分かれているが、例えば「出頭拒否とか退去を認めることが逮捕・勾留の効力自体を否定するものではない趣旨を注意的に明らかにしたと解する見解」や、「本条一項は在宅被疑者に対する出頭要求の規定であり、そうであれば身柄拘束中の被疑者については出頭要求は問題となりえないので、念のため除外規定が設けられたとの見解」などを紹介したうえで、「いずれの解釈にも問題があることは否定できない。しかし、憲法及び刑訴法の精神に照らせば、受忍義務否定説に与すべきは明らかである」とする。

 他方で、取調べ禁止説について多田は次のように述べる。「証拠収集方法としての被疑者取調べを否定し、取調べを被疑者の権利としての『告知と聴聞』の機会と捉える見解もある。しかし、そのよって立つ訴訟観自体に問題があるだけでなく、現行法の解釈としても無理がある」とし、「さらに、現行法上、身柄拘束中の被疑者取調べは許されないとの主張も展開されているが、解釈論としても現実論としても、説得性に乏しい」とする。後者は、澤登佳人(新潟大学名誉教授)、横山晃一郎(九州大学名誉教授)らの見解のことである。有力少数説であるが、一九八条一項は、逮捕・勾留中の被疑者の取調べを認めているため、支持は広がっていない。

 取調べの法的性質について、多田は次のように述べる。「受忍義務肯定説は、受忍義務を認めても供述義務を課すわけではないとして、身柄拘束中の被疑者取調べを任意処分に分類する。しかし、取調べという形での拘束を肯定する以上、強制処分と解すべきである。これに対し、受忍義務否定説は、供述だけでなく、取調べに応じるか否かの自由をも認めるのであるから、取調べは任意処分ということになる」。

 最後に黙秘権について、多田は「本条二項は黙秘しうる事項を限定していないから、被疑者はすべてを黙秘することができる」とする。憲法三八条一項は「自己に不利益な供述」を強要されないと定めているが、黙秘権の範囲は自己に不利益な事項だけではなく、すべてが含まれるという趣旨である。具体的には氏名等の黙秘が問題となる。判例は氏名は黙秘権の対象ではないとするが、学説は氏名も黙秘権の対象と解している。

救援連絡センター『救援』521号(2012年9月)
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/12/blog-post_16.html

取調拒否権の思想(4)

未決拘禁法研究

 二回にわたって取調受忍義務論への批判を見てきた。刑事訴訟法学説の多くは被疑者取調実務を批判している。

 そうした学説を総括し発展させたのが葛野尋之『未決拘禁法と人権』(現代人文社、二〇一二年)である。葛野は一橋大学教授で刑事訴訟法・少年法の専門家である。主著に『少年司法の再構築』(日本評論社)、『刑事手続と刑事拘禁』(現代人文社)、『少年司法における参加と修復』(日本評論社)があり、いずれも本格的な研究書である。刑事立法研究会などの研究会における共同研究と討論を通じてさまざまな著書・論文が公表されてきたが、葛野はそうした研究の中心的存在であり、つねに論争を喚起し、理論成果を積み重ねてきた。『刑事手続と刑事拘禁』と『未決拘禁法と人権』は取調べと身柄拘束問題を考える際の最重要文献である。本書は序章・終章と一一の章、つまり全一三章から成る。まずは目次を掲げておこう。

序章 本書の目的――未決拘禁法をめぐる一〇の課題/第一章 勾留決定・審査手続の対審化と国際人権法/第二章 勾留回避・保釈促進のための社会的援助/第三章 代用刑事施設と国連拷問等禁止条約/第四章 代用刑事施設問題の現在――二〇〇八年自由権規約委員会勧告から/第五章 被疑者取調べの適正化と国際人権法――弁護人の援助による黙秘権の確保/第六章 被疑者取調べにおける黙秘権と弁護権/第七章 被逮捕者と公的弁護/第八章 弁護士会の人権救済活動と刑事被拘禁者/第九章 再審請求人と弁護人との接見交通権/第一〇章 最高裁接見交通判例再読/第一一章 検察官による接見内容の聴取と秘密交通権/終章 刑事被収容者処遇法における接見交通関連規定。

 浩瀚な本書の全体について論評する余裕はない。著者は序章で一〇の課題を掲げているので、それを見て行こう。第一の課題は、身体拘束と取調べを結合させて、取調受忍義務を課し、黙秘権を危険にさらす代用監獄(代用刑事施設)問題であり、「捜査と拘禁の分離」をいかに実現するかである。第二は、身体拘束下の取調べという場面において、被疑者の黙秘権と弁護権がどのような目的・機能を有するかである。第三は、逮捕段階での公的弁護の保障をいかに実現するか。第四は、接見交通権を憲法第三四条の弁護権に由来する権利として再構成することである。第五は、被疑者と弁護人の秘密交通権を制約する実務(接見内容の聴取)による萎縮的効果を生じさせないことである。第六は、再審請求人と弁護人の接見の自由と秘密性の確保である。第七は、接見交通権を制約する刑事被収容者処遇法の解釈・運用及び立法論である。第八は、未決被拘禁者の権利侵害に関する実効的救済である。第九は、無罪推定の法理と身体不拘束の原則に立った、未決拘禁抑制のための社会的援助である。第一〇は、国際人権法による手続保障の水準を踏まえた、勾留決定・審査手続きの在り方である。これらすべてに共通する問題意識は「取調べのための身体拘束」の克服であり、未決拘禁法の在り方という統一的視点から、葛野刑事訴訟法学が開陳される。

弁護権と黙秘権

 葛野は第三章で、代用監獄に関する二〇〇七年の拷問禁止委員会の勧告が、代用刑事施設(代用監獄)の存在・継続を認めたものであるかの如き主張に対して、拷問禁止条約の精神と内容、拷問禁止委員会における審議経過、及び最終的な勧告の内容を吟味して、代用刑事施設は「捜査と拘禁の分離」に適合しないことから、国際的最低水準を満たさず、制度的廃止を勧告したことを明らかにする。続く第四章では、二〇〇八年の自由権規約委員会の勧告が、やはり代用刑事施設の廃止を求め、それまでの間に自由権規約第一四条の完全遵守を促したものであると指摘する。自由権規約第九条三項の「捜査と拘禁の分離」を達成するために代用刑事施設の極小化が求められるという。

 被疑者取調べは自白強要のための人権侵害が起きやすい場面であり、虚偽自白による誤判・冤罪の危険性が高まる。被疑者取調べの適正化は喫緊の課題である。そこで葛野は第五章で、被疑者取調べへの弁護人のアクセスを取り上げ、欧州人権裁判所のサルダズ判決及びイギリス最高裁のカダー判決に学びながら、欧州人権条約を参考に国際自由権規約の弁護権や、不利益供述強要の禁止を解釈する。

 「弁護人の援助により黙秘権を確保するという予防的ルールのもと、逮捕後、弁護人へのアクセスを制限したまま被疑者を取り調べることは、規約一四条三項(c)による弁護権を侵害するのみならず、同項(g)の黙秘権をも侵害する。そのような取調べの結果採取された自白を有罪証拠とすることは許されないのである」。

 「自由権規約一四条三項(c)・(g)の要請からすれば、逮捕・勾留中の被疑者が、弁護人となろうとする者としての当番弁護士との接見を含め、弁護人等との接見を申し出たときは、取調べに先立ち、または取調べを中止して、接見の機会を付与しなければならない。被疑者が弁護人を選任する意思を表明したときは、当然、弁護人等との接見要求を含む趣旨と理解すべきである。接見・選任の要求があるにもかかわらず、取調べ中または取調べの間近い確実な予定をもって『捜査のため必要がある』として接見指定をすることは、弁護人へのアクセスの制度的な制限として許されない」。

 さらに葛野は第六章で、「被疑者の権利としての取調べの適正化」のための弁護人立会権を論じ、「取調べへの対応が防御上重要な意味をもつ以上、防御権的性格を有する黙秘権を確保するための手続き保障として、被疑者が自己の権利を十分理解したうえで取調べに臨み、黙秘するか、なにを、どのように供述するかを判断するにあたり、取調べに先立つ弁護人との接見とあわせ、取調べ中の弁護人立会権が保障されなければならない。このような弁護人の援助は、黙秘権を確保するための手続保障として、憲法三四条の弁護権とともに、憲法三八条一項により基礎づけられることになる」と述べる。

 以上、『未決拘禁法と人権』のごくごく一部だけを紹介した。刑事手続き、とりわけ取調べの適正化をめぐるもっとも優れた研究であり、『刑事手続と刑事拘禁』とともに繰り返し読み解き、理論的にも実践的にも活用されるべき一冊である。

 これまで紹介した刑事訴訟法学説を参考にしながら、次回、いよいよ取調拒否権の具体的内容に入る。

救援連絡センター『救援』522号(2012年10月)
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html

取調拒否権の思想(5)

個人の尊重

 取調拒否権とは何か。いかなる思想的根拠、法的根拠を有するのか。具体的内容はどうか。実践方法と留意事項は何か。そして、その効果はどうか。今回から取調拒否権の概要を明らかにしていきたい。

 まず取調拒否権の根拠である。一般に、自己負罪拒否権は憲法第三八条に由来し、憲法第三七条の弁護人選任権などとともに議論の基礎とされる。それは誤りではないが、取調拒否権を市民が有する基本的権利として構成するためには、まず第一に、憲法第一三条を踏まえる必要がある。

 憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。まず、「国民」とあるので、外国人は憲法上の基本権享有主体ではないとする学説も存在したが、基本権は国家以前の権利であり、日本国憲法は国際協調主義を採用しているうえ、「個人として尊重される」のであるから、国籍が要件となるのは疑問であり、外国人も個人として尊重される。

 次に「個人として尊重される」とは「一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならない」ということである(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、一七三頁)。個人の尊重は「個人の尊厳」「人格の尊厳」とも呼ばれる。「『人格の尊厳』原理は、まず、およそ公的判断が個人の人格を適正に配慮するものであることを要請し、第二に、そのような適正な公的判断を確保するための適正な手続きを確立することを要求する」(佐藤、一七四頁)。

 また、「幸福追求に対する権利」は、個人の尊重を受けて「人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続けるうえで重要な権利・自由を包括的に保証する権利」(佐藤、一七五頁)である。なお、幸福追求権の性格については人格的利益説以外に、一般的自由説もある。

 幸福追求権は個人の尊重と結びついて包括的な権利とされる。その内容は、第一に「人格価値そのものにかかわる権利」(名誉権、プライヴァシーの権利、環境権)、第二に「人格的自律権(自己決定権)」、第三に「適正な手続的処遇を受ける権利」に分けられる。プライヴァシーの権利と自己決定権とは重なるように見える概念であり、同じ意味で用いられることもあるが、より広い意味で用いられることもある。いずれにせよ、市民は取調べの客体として、追及的取調べを受け、望まない供述をすることを強要されてはならない。また、プライヴァシーの権利は表現の自由とも密接に関係する。個人のプラヴァシーをみだりに公表されないだけではなく、表現したくないことを表現させられないことも含まれる。表現するか、しないか。何を表現するかは、個人の自由である。取調べを強要することは、個人の表現の自由に国家が介入することである。そして、適正な手続的処遇を受ける権利である。これは憲法第三一条以下に詳細に規定されているが、まずは第一三条に由来するのである。

 国際人権法についてみると、世界人権宣言第一条は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とし、第三条は「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とする。幸福追求権のような規定ではないが、尊厳と自由が確認される。国際自由権規約にはこのような一般的規定はないが、前文において「これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め」て、各条で具体的な自由と権利を定めている。

自己負罪拒否権

 取調拒否権の第二の根拠は、憲法第三八条である。憲法第三八条は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と定める。

 第三八条第一項の「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」を、憲法学及び刑事訴訟法学は「自己負罪拒否特権」と略称しているが、不適切である。「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明示しているのであるから、普遍的権利であって、「特権」ではない。コモン・ローの伝統に由来することを表現するために「特権」という語が用いられているが、それ以上の意味はない。個人の尊重に照らし、人間性を配慮して、何人に対しても供述強要は許されないという意味である。

 また、第一項を、第二項の「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」に強引に引きつけて解釈するべきではない。第二項は「強制、拷問若しくは脅迫」と明示しているが、第一項は端的に「自己に不利益な供述を強要されない」とする。「強制、拷問若しくは脅迫」があれば強要したことになるが、それがなければ強要したことにならないと解釈する理由はない。

 「自己に不利益な供述」とは「自己の刑事上の責任に関する不利益な供述、すなわち刑罰を科せられる基礎となる事実や量刑にかかわる不利益な事実などについての供述をいう」(佐藤、三四五頁)。

 重要なのは、第一三条の個人の尊重に照らせば、自己に利益か不利益かを問わず、あらゆる供述強要が許されないのに対して、第三八条では不利益供述に限定されていると読めることである。この点は刑事訴訟法第一九八条二項の黙秘権の理解にかかわる。刑事訴訟法第一九八条二項は「前項の取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない」とする。刑事訴訟法第二九一条三項や第三一一条一項も含めて、不利益供述に限定していない。憲法第三八条一項と刑事訴訟法の諸規定とを比較して、刑事訴訟法の黙秘権は憲法の保障の趣旨を拡大したものだとする学説があるが、不適切である。供述強要禁止は、第三八条だけではなく、第一三条の要請でもある。刑事訴訟法の黙秘権規定は憲法の要請を正しく反映している。第三八条は、特に不利益供述禁止を強調したものと理解すれば足りる。

 国際人権法についてみると、国際自由権規約第一四条三項(g)は「自己に不利益な供述又は有罪の自白を強要されないこと」を権利と定めている。この条項の解釈については、前回紹介した葛野尋之『未決拘禁法と人権』(現代人文社、二〇一二年)参照。

救援連絡センター『救援』523号(2012年11月)
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取調拒否権の思想(6)

 今回から取調拒否権の具体的内容を論じる。市民が権利主体として取調拒否権をいかに位置づけ、いかに我がものとし、実践するかである。取調拒否権の行使の在り方と言ってもよい。前回論じたように、取調拒否権の根拠は個人の尊重と自己負罪拒否権であり、その両輪を抜きに論じてはならない。自己負罪拒否権だけを念頭に置いて、しかもこれを「特権」として理解するべきではない。誰もが有するという意味での普遍的人権の一つであり、人格権の一側面である。

誰でもできる黙秘権を

 自己負罪拒否権は、直接的には憲法第三八条一項に規定されている。刑事訴訟法第一九八条二項は被疑者、同法第二九一条三項及び第三一一条一項は被告人の黙秘権を規定する。黙秘権について、従来、憲法学及び刑事訴訟法学では、第一に自己負罪拒否権との関係、第二に黙秘権の主体、第三に黙秘権の告知、第四に黙秘権の対象範囲をめぐって議論してきた。救援団体や弁護士は黙秘権行使を実践的に論じてきたが、法学としての議論は右の四つに絞られていたと言ってよいだろう(行政手続については別論)。

 第一に、自己負罪拒否権との関係である。憲法第三八条二項は不利益供述に限定しているように読めるが、憲法第一三条の個人の尊重をもとにすれば、利益不利益を問わずあらゆる供述強要が禁止されるのが当然であり、黙秘権規定もその趣旨である。

 第二に黙秘権の主体である。刑事訴訟法は被疑者・被告人の黙秘権を定め、憲法第一三条及び第三八条一項は何人も供述を強要されないことを定めている。何人も黙秘権を有するが、法は特に被疑者・被告人について明示規定を掲げた。

 第三に、刑事訴訟法は黙秘権の告知を定めているが、憲法第三八条二項が告知を要求しているか否かについて判例・学説は否定的とされる。しかし、憲法第一三条及び第三八条二項の双方に根拠を有する供述強要の禁止であるから、告知がなければ権利保障とは言えない。アメリカにおけるミランダ・ルールと同様に考えるべきである。

 第四に、黙秘権の対象範囲として氏名の黙秘が問われてきた。一九五七年二月二〇日の最高裁判決は、氏名の供述は原則として不利益供述に当たらないとし、氏名を黙秘した者による弁護人選任届を無効とすることは第三八条二項に反しないとした。しかし、憲法第一三条も黙秘権の根拠であり、いかなる供述強要も許されない。憲法第三八条二項も、許される供述強要と許されない供述強要を区別していないし、そのような区別の合理的基準を示すことはできない。それゆえ、包括的黙秘権を保障しなければならない。

 第五に、黙秘権行使の実践である。従来、被疑者・被告人が黙秘権行使を選択すれば、供述強要はできず、供述しないことを法律上不利益に扱ってはならないという形で議論されてきた。

 しかし、これでは権利保障になりえない。以下では特に身柄拘束された被疑者について言及するが、長期にわたる勾留の下、取調室において捜査官による取調受忍義務を強制され、人格を侮辱する罵声を浴びせられ、執拗に供述を強要されてきた。黙秘権を行使するために、身柄拘束された被疑者は捜査官と徹底対決し、あらゆる身体的苦痛と闘い、精神的抑圧に抗して英雄的な闘いを敢行しなければならなかった。黙秘権の意義を熟知し、その帰結を明確に認識し、供述強要と徹底的に闘う強靭な意思が必要とされた。完黙(完全黙秘)が称賛されるべき英雄的闘争と理解されてきた。

 これでは黙秘権は憲法によって保障されるのではなく、当事者の闘う意思によって実現されるにすぎないことになる。黙秘権行使が英雄的闘いであってはならない。誰でもできる黙秘権の実践を考える必要がある。

出房拒否の実践

 黙秘権行使が英雄的闘いとなってきた理由は、何と言っても、代用監獄を利用した取調べ状況である。身柄拘束された被疑者の大半が拘置所ではなく、警察留置場に収容される。逮捕段階で七二時間、勾留が付されると一〇日プラス一〇日で、合計二三日間もの身柄拘束が強行される。この間、被疑者は家族にも職場にも連絡できず、外界の情報から遮断される。二四時間、身体と生活を警察によって管理される。取調室に移動させられ、捜査官の支配下、勝手気ままな取調べを強要される。弁護士との接見時間はごくごく限られている。取調べ時間が一時間なら、接見時間も一時間という当たり前のことさえ弁護士は要求しない。このように圧倒的に不利な状況において、被疑者は黙秘権を行使しなければならない。黙秘権を行使しようとしても、えんえんと取調べが続き、捜査官は質問を続け、被疑者を貶め、人格を攻撃する。黙秘権を行使できるのは、確乎とした思想を持ち、捜査官による強要に頑として抵抗できる者だけとなる。

 こうした状況を改める必要がある。黙秘権はすべての者が有する普遍的人権としての人格権の一側面でもある。実践困難な課題であってはならない。

 そこで注目すべきは出房拒否による取調拒否の実践である。先に紹介したように、二〇一一年二月二〇日、奇しくも最高裁判決から五四年目に、米軍ヘリパッド建設反対デモの際に逮捕・勾留されたAは、取調拒否を宣言し、出房拒否を実践した。

 「Aは『供述は任意であり、そもそも黙秘を公言しているのだから、取調室に行く必要がない。強制的に引きずってでも連れて行くつもりなのか。もしそうするなら徹底的に争うぞ』と言った。すると、留置担当官は『強制的には連れて行けないけど、取調べの刑事さんに直接言ってもらえる?』と言うので、『言うために出て行ったら、なし崩しに取調べになる。行かない』と返すと、それで終わった。他の日も呼びには来るが、『出ない』と言えばそれまでであった。」(本紙五一九号、本年七月)

 黙秘権を行使するのだから、何も話すことがない。従って、取調室に行く理由がない。取調室に行っても、捜査官による執拗な質問責めにあうか、侮辱に耐えるかしかない。時間とエネルギーの浪費である。身柄拘束された被疑者は、留置場の房で心静かに釈放の日を待つのが一番である。Aは次のように述べている。「当然権力の反撃もあるので楽観できませんが、転向強要・自白強要の温床である密室から自由であることの意義は大きく、自白中心主義を解体するための強力な武器になると思います」(同右)。

 市民には個人の尊重と不利益供述強要の禁止という憲法上の権利がある。刑事訴訟法では黙秘権の告知が要求されている。黙秘権行使を選択した市民は、拘置所に収容されようと、留置場に収容されようと、取調べを強要される理由がない。積極的に取調べを受けたい場合はともかく、捜査官の違法な取調べを避けるための一番の方法は取調室に行かないことであり、出房拒否である。これが被疑者の防御権の核心である。

救援連絡センター『救援』524号(2012年12月)
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取調拒否権の思想(7)

在房義務                                     

 前二回で取調拒否権の憲法上の根拠と具体的内容を明らかにした。違法取調べと自白強要を避けるための方法は出房拒否であり、取調室に行かないことである。これが代用監獄に収容された被疑者の防御権の核心である。

 同時に、そもそも被疑者は取調室に行くことを許されていない。逮捕・勾留中の被疑者を代用監獄から取調室に連れ出して取調べを行うことは違法である。被疑者には在房義務があるからである。

 梅田豊(愛知学院大学教授)はかつて「取調べ受忍義務否定論の再構成」『島大法学』三八巻三号(一九九四年)及び「身柄拘束の法的性格についての一考察」『島大法学』四〇巻三号(一九九七六年)において、被疑者の身柄拘束は捜査機関の権限ではなく、裁判官の権限であり、裁判官の勾留命令によって「勾留すべき監獄」が指定され、被疑者はその施設に「滞留」しなければならないことに着目した。

 もともと、被疑者の身柄拘束場所は拘置所である。これに代えて警察署付属の留置場を代用監獄として用いる実務が続いてきた。現に多くの勾留命令は警察署付属の留置場を身柄拘束場所として指定してきた。身柄拘束場所が拘置所であれば、捜査官が被疑者の身柄を拘置所から他へ移すことはできない。検証令状などが必要となる。同じように、身柄拘束場所が留置場(代用監獄)であれば、捜査官は被疑者を留置場から連れ出すことは許されない。裁判官の命令に反して勝手に取調室に連れて行くことは許されない。被疑者には留置場に在留する義務がある。

 高内寿夫(國學院大学教授)も「身柄を拘束された被疑者には取調室に出頭する権利はない」と言う。刑事訴訟法一九八条一項は、主に身柄拘束されていない被疑者に対する出頭要求の規定である。他方、身柄拘束されている被疑者には出頭する権利がないから、捜査官側に出頭要求権がない。身柄拘束された被疑者は監獄又は代用監獄にいるのであって、取調室にはいない。取調室に行くことができない(高内寿夫「逮捕・勾留中の被疑者取調べに関する一試論」『白鴎法学』三号(一九九五年)。         

 梅田・高内説は、実務に慣れ切った頭には容易に理解できないかもしれないが、憲法に適合し、国際人権法の要求に合致し、刑事訴訟法を無理なく解釈している。被疑者には、裁判官の勾留命令により在房義務があるので、取調室に行くことができない。被疑者や留置担当官の勝手な判断で被疑者の在留場所を変更することはできない(前田朗『刑事人権論』水曜社、二〇〇二年)。

 他方、前回まで見てきたように、被疑者には黙秘権行使のための取調拒否権がある。取調拒否権を行使するならば、取調室に行かないことが被疑者の防御権行使である。いずれにしても、本来、捜査官は勝手に被疑者を取調室に連れて行くことができない。       

 二〇〇五年の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律第一四条以下は留置施設について定め、同法第三章は「留置施設における被留置者の処遇」を定めているが、留置施設に関する規定によって憲法と刑事訴訟法に定める被疑者の権利を制限することはできない。

権利不行使

 以上が取調拒否権の基本であるが、いくつか補足しておこう。          

 第一に、取調拒否権の思想は取調否定説とは異なる。取調否定説はかつて澤登佳人(新潟大学教授)及び横山晃一郎(九州大学教授)によって唱えられた。誤判・冤罪防止のための意欲的な学説であるが、学界に支持を増やすことができなかった。取調べそのものを否定することはやはり無理がある。取調拒否権の思想は、取調受忍義務を否定するが、取調べそのものを否定しない。

 第二に、それではどのような場合に取調べが可能となるか。それは被疑者が取調拒否権を行使しない場合である。刑事訴訟学説には時に「権利放棄説」と呼ばれる名称が登場するが、取調拒否権は憲法一三条の個人の尊重、人格権に由来するので権利放棄と見るのは必ずしも適切ではない。被疑者が弁護人と相談の上で、権利不行使を選択すれば、取調べが可能である。

 被疑者には弁護人の援助を受ける権利がある。とりわけ身柄拘束された被疑者は、身柄拘束の最初期段階で弁護人の援助を受ける必要性が高い。それゆえ身柄拘束された被疑者は、まず弁護人選任をなし、弁護人と接見して黙秘権や刑事手続きについて説明を受けたうえで、黙秘権を行使するか、それとも行使せずに積極的に取調べに臨むかを選択できなければならない。黙秘権を行使する場合には、取調室に行かないのが本筋である。被疑者は取調室に行けないと考えるべきである。他方、被疑者が取調室に行くことができるとする実務を前提とすれば、取調拒否権を行使する被疑者は取調室に出向くことになるが、黙秘権・取調拒否権を行使する被疑者に捜査官が取調べを行うことはナンセンスである。繰り返すが、取調べを受けて自ら積極的に供述した方が良いという選択をした被疑者は、取調拒否権を行使せず、取調室に出向いて自らの記憶に基づいた供述をすれば良い。

 第三に、「可視化」との関連であるが、取調拒否権を行使しない場合であっても、現状のような長時間・密室の自白強要的取調べは許されない。取調拒否権を行使せずに取調べを受ける被疑者は、弁護人と相談の上、録音録画を求めるか、弁護人の取調べへの立会いを求めるべきであろう。被疑者には取調受忍義務がなく取調拒否権があるが、これを行使せずに取調べを受けるのであるから、取調べの条件を付すことが相当である。条件が守られなければ、取調室から退去する自由がある。「可視化」の意味はこのような文脈で理解されるべきである。取調受忍義務を前提とした可視化は本末転倒であるし、一部可視化は論外である。

 取調拒否権の思想の要諦は、それが憲法第一三条と第三八条という人権規定によって保障されていることを適切に理解して、権利行使の具体的方法を明示したことにある。従来の実務はもとより、学説もこれらが憲法上の権利規定であることを十分にわきまえた理解を示してこなかったと思われる。憲法上の権利を前提として刑事訴訟法第一九八条を解釈するべきであって、憲法と刑事訴訟法を切り離して、刑事訴訟法第一九八条一項の反対解釈を唱えるのは、原則と例外の安易な転倒である。                          

救援連絡センター『救援』525号(2013年1月)
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取調拒否権の思想(8)

被疑者は法主体

 七回にわたって黙秘権と取調拒否権について検討してきた。黙秘権を実践するためには取調拒否権が不可欠である。取調拒否権を実践するためには出房拒否が効果的である。留置場(代用監獄)に収容された被疑者には留置場に滞留義務があり、取調室に行く自由はないから、当然、被疑者は出房してはならず、取調室に行く必要もなく、行ってはいけない。この実践によって被疑者の黙秘権行使ができるし、自白強要を防止することができる。

 これまで弁護実務も刑事訴訟法学も、留置場収容された被疑者が取調室に行って取調べを受けることを疑わずにきた。前回紹介した学説が大方の賛同を得ることができなかったのは、なぜか。弁護実務も学説も、法的根拠なしに、被疑者は取調室で取調べを受けるものと考えてきたからであろう。取調受忍義務を否定する学説でさえ、取調室から退去することができるとする程度であって、被疑者が取調室に行くことを当然の前提としてきた。刑事訴訟法第一九八条一項但書の反対解釈に囚われてきたと言ってよい。

 なぜなのか。弁護実務も学説も、被疑者の法主体性を積極的に認めてこなかったのではないだろうか。学説は一般に、訴訟の主体として、裁判所、検察官、被告人及び弁護人を掲げてきた。被告人はいちおう法主体として位置づけられている。

 ところが、起訴前手続、捜査段階については、捜査の端緒、任意捜査の原則、逮捕と勾留、証拠の収集・保全、被疑者の取調べなどを論じた後に、防御(黙秘権、弁護人選任権、外部交通権、証拠保全請求など)が論じられるにとどまってきた。明らかに捜査機関の活動に主に焦点が当てられている。捜査の主体は警察等の捜査機関とされる。弾劾的捜査観に立つ論者であっても、捜査段階の議論の仕方は変わらない。被疑者は捜査の客体として登場する。捜査の客体として位置づけられた被疑者に一定程度の「主体性」を仮構するために黙秘権や弁護人選任権が追加的・補助的に論じられる。あくまでも仮の主体としか見ないため、黙秘権の実践が論じられることはなく、弁護人の活動に焦点が当てられる。捜査の客体から「弁護の客体」への変化にすぎない。

 近代市民法は、自由・平等・博愛といったスローガンに代表される主体としての市民の法体系である。私的所有、契約自由の原則、国民主権、個人の尊重、内心の自由、表現の自由などの市民法原理は、刑事法の領域では、人身の自由、無罪推定、適正手続の保障、黙秘権、拷問の禁止、罪刑法定原則、行為原則などの諸原則に集約される。

 しかし、刑事訴訟法学は、裁判段階の被告人の主体性を確立することに力を注いだが、起訴前の被疑者については仮の主体性しか認めてこなかったのではないだろうか。  

 なるほど被疑者は自らの意思に反して捜査の客体として引き出されるのが実態である。そうであっても、否、逆にそうだからこそ、被疑者を法主体として位置づける理論が不可欠であるはずだ。被疑者に黙秘権を認めるのであれば、単に黙秘権があることや、黙秘権行使の帰結・効果だけを論じるのではなく、黙秘権を行使できる客観的状況をつくり出すことこそが弁護実務と学説の任務だったはずである。黙秘権を有する被疑者を取調室において捜査官による執拗な取調べに晒してきた現状は、被疑者の主体性を結果的に剥奪する実務を容認したものと言わざるを得ない。


権利の要諦

 近時、取調可視化や弁護人立会いが強調されている。可視化も立会いも重要であるが、本筋ではない。本筋はまず取調受忍義務という名の供述強要を否定することであり、黙秘権行使の実践である。法原則を棚上げした弁護戦術論だけでは事態の改善は望めないだろう。

 憲法第一三条はすべての市民に個人の尊重を認めている。憲法第三一条は適正手続きを保障し、憲法第三七条三項は被告人に弁護権を保障しているが、被疑者にも当然保障するべきである。憲法第三八条一項は不利益供述の強要を禁じ、二項は強制等による自白の証拠能力を否定している。刑事訴訟法第一九八条二項は被疑者の供述拒否権を定め、訴訟主体である被告人にも黙秘権が認められている。それでは身柄拘束された被疑者は、どうするべきか。

 第一に、弁護人を選任することは言うまでもない。以下の判断の際も基本的に弁護人と相談のうえ判断するべきである。弁護人と相談できない段階では、つねに取調拒否権行使が正しい。

 第二に、たとえ一部でも被疑事実を否認する場合、弁護人と相談の上で黙秘権行使を検討し、黙秘権行使を決めた場合は、その旨を留置担当官に告げて、取調室行きを拒否するべきである。留置場の房から出ず、弁解録取署の作成や取調べと称する取調室への連行を拒否するのである。

 第三に、被疑事実を認める場合であっても、必要のない過剰な取調べを拒否することである。捜査官は余罪追及と称して、被疑者が認めた被疑事実以外の事実について取調べを強行することがあるが、その際は取調拒否権行使であり、取調室から房に戻るべきである。

 第四に、取調室に行って取調べを受ける場合、まずは弁護人立会いを要求するべきである。

 第五に、取調べを受ける場合、全面可視化(録画録音)を要求するべきである。つまみぐいの一部可視化の場合は、取調拒否権に戻るべきである。

 次に弁護人は、どうするべきか。最低限、次のことを検討するべきである。

 第一に、被疑者が身柄拘束された場合、初回接見時に黙秘権があることを告げ、黙秘権を行使する場合と行使しない場合について説明する。被疑者が黙秘権行使を選択した場合には、取調拒否権と出房拒否権を説明するべきである。被疑者には取調受忍義務はなく、出房する必要はなく、留置場に滞留するようにと、助言するべきである。

 第二に、被疑者が黙秘権不行使を選択した場合は、取調室に行かせることになる。そこで弁護人は立会いを要求するべきである。立会いがやむを得ない理由から実現できない場合であっても、取調べ直前及び直後に接見を要求するべきである。

 第三に、被疑者が取調べを受ける場合は、その条件として全面可視化を要求するべきである。全面可視化が容れられない場合は取調べを拒否させるべきである。

 このテーマは今回でいったん終わりとするが、論じ残した点を後日、再論したい。 

救援連絡センター『救援』526号(2013年2月)
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